2012年07月16日更新
オリンピアンと夢の舞台を支える人達!!(2−1)

夢に向かって走り続けてきたアスリート。その陰にはどんな時も彼らを支えてきた人達の姿があります。それは母であり、父であり先生でありスタッフでしょう。

2012年、夏。五輪直前、アスリート達とその母の“家族の絆”を感動秘話で描くヒューマン・ドキュメンタリー番組がありました。トップアスリートを育てた母ならではの「子育てヒント」も満載ででした。

卓球福原選手の母娘と中国のお姉さんとの絆は、大変有名です。そして勿論、ご家族も「卓球愛ちゃん」を支えてきた事は、卓球を遣っている人は皆御存知ですね!
同じ卓球の石川佳純選手、その他のオリンピアンの切っ掛けと育て方に注目してみました。


◆卓球「石川佳純選手」…
小学校1年の時に遊びで始めた卓球…
元国体選手だった母久美子さんの指導を翌年から受けながら本格的に練習するが、練習嫌いで試合ばかりしていた卓球少女…
五輪を意識するように成った頃から、母久美子さんさんが遠征にも帯同するようになり、石川選手は心強くもなり、技術的指導をしてもらったりするが、怒鳴ることなく注意をしてくれたそうです。
母との卓球は「本人が甘えられる部分は良い部分」そして精神的に辛い時には話を聞いて、本人の辛さを和らげる事ができる。
そんな母娘は、一緒に夢見てきた舞台、ロンドンに降りたたった。


◆サッカー女子澤穂稀選手…
日本においてまだ女子サッカーが盛んではない時代。少年サッカーチームへの入団を「前例がないから」と断られた澤選手の母はチームの監督に「ならば、うちの娘で歴史を作ってください」と言い放ったといいます。
男の子の中で練習を積んでこられた澤選手が女子サッカーの歴史を作ってくれたのですね。
澤母娘は「お互い話さなくても分り合える」と語る、親子の絆がありました。


◆バトミントン女子潮田玲子選手…
母・睦子さんがバドミントンを教えたことがきっかけでスポーツクラブに通い始めた玲子選手。三洋への入社も、オリンピックへ行くためにと、睦子さんが決めたそうです。1か月に1度、神奈川の実家に帰る潮田選手。
「辛い時には、気持ちをぶつける相手は母」という。
「もう辞めたい〜」そんな弱音を吐いた時には、性格を見ぬいた母は「いつでもやめて帰っておいで!私は玲子と一緒に居られるなら大歓迎ヨ」と受け入れるふりをしたそうです。
わが子の性格なら、そうすれば逆に負けん気に火がつく事を知っていた。
オグシオでの北京五輪はベスト8でした。
ロンドンでは「イケシオ」で日本初めての混合に専念して五輪代表を手にしました。


◆クレー射撃3度目五輪の中山由起枝選手…
シングルマザーとして10歳になった愛娘の応援に、競技を続けながら「この子に、私が一生懸命遣っている姿を見せたい。この子の人生の中で辛い時、思い出してくれたらと…」考えていると言う。
子供のいる女性アスリートは珍しくなってきたが、シングルマザーでのトップアスリートであり続けて欲しい!


◆水泳バタフライ金田和也選手…
1976年のモントリオール五輪に出場し、1980年のモスクワ五輪には出場権を獲得していたにも関わらず、日本のボイコットで出場がかなわなかった、母・幸子さん。自分の息子には水泳選手になって欲しくなかったと語っていたが本当の思いは…
今も金田スイミングクラブで子供たちを指導する五輪代表選手の母が一番、夢を掴んだ喜びと辛さをわかっているに違いありません。


◆男子レスリング湯元健一、進一選手…
父・哲也さんが厳しかった分、優しかったお母さんがいなかったら、レスリングをやめていたかもしれないと語る、進一選手と健一選手。
そんな双子のオリンピック選手を育ててきた母サツエさんには“双子を育てる”事においてある苦悩があったといいます…


◆自転車ロードレーサー宮沢崇史選手…
宮澤選手が6歳の時に父は他界。その後、女手一つで育ててこられた母・純子さんが、硬化性胆管炎になったのは、宮澤選手が21歳の時でした。
自らの選手生命が危ぶまれる中、肝臓の一部を母に生体移植した崇史選手に迷いはなく「当たり前のことです」と語っていました。
その後大変な努力続け、デンマークの有力チーム「サクソバンク」に加入し活動中。
純子さんは無事に命を取り留め、今は長野県でひとり暮らしをしながら、宮澤選手の活躍を応援しています。
残念ながら、今回は五輪代表をあと一歩逃してしまいましたが、母のために次の五輪を目指してますと語っていた。
デンマークから「今回はロンドンに連れて行かれなく成ったけど次は頑張るよ!」と日本に電話をしていました。


        オリンピアンと夢の舞台を支える人達!!(2−2)に続く……